昭和51年03月23日 朝の御理解
御理解 第51節
「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え。」
願ってもおかげにならなかったらつまりません。何なりとも願えと仰せられるから、何でもまあ実は段々信心が分かってくればくるほどに、願わずにはおられない。自分のいわゆる無力さ加減と言うものが、愈々分かってくればくるほど、願い縋らなければおられない。問題はその願う縋る姿勢が大事です。ね、まここにはいと簡単に実意もって願えとこう仰る。だからここん所は本当に痛いなら痛い。
痒いなら痒いという、それが本当の心実意ですから。それを願うと言う事ですけれども、そこん所は私はあの矢張りお取次ぎを頂いて願うと言う事になる。それが私は実意だと思うです。ですからそういうおかげであると同時にです。私はもっともっと私共が、祈り願わせて頂き縋らせて頂いたら、おかげを下さるその働きを起こす信心とでも申しましょうかね。これならば神様が絶対聞いて下さると。
私共の中には実感として本当に、難儀な様々な様相のなかから、その難儀の一つひとつを、おかげを頂きたい成就のおかげを頂きたいとまあ思います。けれどもその本当におかげを頂くと、いうならどう言う事かというと、信心をさせて頂いておると言う事は、なんと有難いなんと幸福な事であろうかと思えれるようなおかげ。ね。そういう例えばおかげを、先ずは頂く事だ。そしてこのいうならば有難い、又は幸福に浸らせて頂いておる、この信心を愈々、子にも孫にも伝えておかなければおれん。
またこれは実感として、おれんというものがなからなければいけない。ね。本当に自分が信心によることの幸せ、有難さいわゆる幸福感と申しますか、が頂けたらどうあっても一つ子に孫に、ね。又は自分の周辺の人達にもです。この様にも幸福になれるんだ。この様にも幸せになれるんだというおかげをです。先ず私自身が頂かなければいけない。ね。そういうおかげを先ず頂かなければいけない。
それには唯一つなら牛の事、馬の事まで願えと言う事ですから、もう本当に人間のまあある意味では、まあ欲望の様相ですかね。いうなら我情我欲の事までもです。まっ願えというふうに聞こえますけれども、それはどこまでも、ね。実意を持って願うのです。実意と言うものを究明していっておりますとです、ね。いうならば我情我欲と言うものが感じられたり、取れてまいります。
そこから願わしてもらう、牛馬の事であり、ね。家業出精身の上安全、全ての事になってくるのです。そういうおかげが願えれる、祈れいや祈らずにはおれない、いうならば私共を発見したとき。いわゆる無力の私と言う事を分からせて頂いた時に、それが願えれる縋れれるそして、おかげが頂けるという時に私は、ね。人間の本当の幸福と言うか、有難い信心を頂いておって良かったな、金光様のご信心を頂いて良かったなと。合楽にご縁を頂いておった事が有難いなと言う事が分かる。
その有難いという心をです、子にも孫にも、自分の周辺に住んだ人達にも、伝えなければ止まんという働きが起きてくる。そういう願いが出来るように、段々ならなければならない。私昨日から色々夕べは、もう二時半ごろ終わりました、御霊様の終わりましたけれどもそれから眠れませんでしたから、その眠れん間に、色々考えさせてもろうた。第一私は、この様なおかげを頂いて、それこそもう本当に、こんな幸福があるだろうかと。こういう有難い信心を頂いてなかったら、今頃はどんなになるだろうかと。
いわゆる幸福を、しみじみ感じさせていただいた。愈々もって子に孫にそれこそ、世界中の人達にこの有難いおかげの頂けれる御道の信心を伝えずにはおけない。伝えずには止まんと言う様な心が、もりもりと起きてくる。そして第一私はこういうおかげを頂いてきたのが、どういう願い、どういう信心をさせて頂いたから、神様がこの様なおかげを下さるのだろうかと、私は思うた。
そしてほんなら過去の信心を、ずうっと思うて見るのに、神様に喜んで頂ける。いや神様が白羽の矢を立てて下さると言う様なものは、何もない事に気が付いた。ただ我情我欲を願うばかり、ね。それこそ願ってきたけれども、おかげを受けたり受けなかったり、頂いておるやおかげもおかげと気付かなかったりと言う様な事ばっかりあったという事。ね。そんなに思わせて頂いておりましたら、神様があの親孝行の孝の字を頂いた。ははぁ神様はここに目を付けなさったな。
ここに私に白羽の矢を立てなさったなと。これはもう私が物心付く頃から、これだけは思い祈り願い続けてきた事です。もう本当に親に孝行をしたいというその心です。もうそれが誰よりも強かったと思うです。もうその前に私は考えてみるともう、自分というものを、何時も犠牲にしておったと思うです、親孝行のためならば。ね。それでなら親に喜んでもらうことのためにです。ね。
親に安心してもらう事のためにならば、どげな修行でもしようと言う様な心が、もう物心付く頃から、それを思い願い続けておったと言う事。そこに神様が白羽の矢を立ててくださった。ね。そして終戦引き揚げ。とにかく目も当てられない。親孝行だんどころではない。もう親と共に難儀苦労しなければならないという状態になった時にです。いわゆる、その一念が愈々燃えてきて、愈々本当な、まっ本当なというか信心が熱心になり、分からせて頂くようになってきて、段々分かった事がです。ただ親に孝行したいの一念がその親が段々大きくなってきた。親教会があった、ね。御本部があった。いうなら金光大神のお取次ぎの下さる一番、願目というのは、天地金乃神様の神願が成就する事のために、金光大神は、御出現ましたんだと言う様な事が分かってきてです。その天地金乃神様のお心を体していわゆる、天地金乃神様の一番の一つ忠義ものに、お取立てを頂きたいという願いに変わってきた。
それが私がおかげを頂いた元だ。段々そして信心が分かってくれば来るほどにです。いうならば実意と言う事も、段々分かってくるようになり、ね。大変いうならば幅の広い事になってきた。そこで願いもまた大きくなってきた。ね。世界にいうならば和賀心時代をね。広めずには止まんと言う様な、ね。おかげの心が開けてきた。ね。そして段々思わせて頂く事は、その親に孝行したいとか親教会にどうとか、と言う様な事は大変小さい事であって、ね。いうならば天地の親神様への孝行が出来るようになったら、ね。いうならば親教会にも孝行が出来るように、又は親にも孝行が出来るように、ちゃんとおかげを下さる。ね。昨日そんな思いを、段々続けさして、今教団でとり進められておる、御取次ぎ成就信心生活運動の事なども、しっかりお願い思いの中に色々こう、浮かんでまいりました。そしたら神様は、私の事を桃太郎さんとこう。ね。ですから、ね。とても今の時点ではです、ね。いわば本当の生き方、あり方と私が信じておる事が、とても徹底しようにも、しようのないほどに大変な、大きな難しい事だと。大仏さんの大きな大仏さんを一人でこう、押しやろうとするようなものだと言う事を頂きました。
この頃からあの鬼の、鬼がこうマイクで呼びかけておる。いうならば御取次ぎ成就信心生活運動の内容である所の和賀心を基軸にして、その和賀心というものが、こんなにも有難い幸せになれれる道だと言う事を、いかに説いても明かしても、ね。鬼が呼びかけておったのでは、誰も聞き手はない。鬼というのは、まっ親の言う事を聞かん子供だと言う意味で御理解頂きました。その鬼征伐をしなければならない。その鬼征伐をするためには、私の微力私一人の力と言うものでは、どうにも出来ない。それは大仏さんを押すように、大変な難しい事だと。ね。そこでです私はいうならば、金光様のご信心によって、お徳におすがりして、沢山のきび団子を用意しなければならないと頂いた。ね。いわゆる愈々きび団子を沢山作らせて頂いて、ね。それこそおかげを願う者にはおかげを、御徳を願う者にはお徳を授けれる力を、もっともっと沢山きび団子を頂かなければならない。
そこに本当な意味においての、犬、猿、キジが足ろうた時にです、鬼が島へ鬼征伐に行くというようなおかげを頂かなければ、とても今の様な事では出来ない。まずまず私自身が、もっともっと助からなければならない。沢山のきび団子をもちっと用意しなければならないと言う事になりました。ね、いくら素晴らしい事だからと言うて、ただ願うたいくらほんなら、実意を持って願うたと言うてもです、ね、叶えられない事も沢山ある。なら皆さんが例えば、なら一身上の事でも願われてもです、ね。どんなに願うても願うても、それだけはやられないと言う事もあると言う事です。ね。どんなに例えば乳飲み子が、ね。お乳が欲しいと言うて泣き叫んでもです。ね。例えばそのふうふしなければ飲まれない、その熱いものを飲ませるはずがない親は。そのいわばふうふして冷まさなければ、ね。冷まして飲む加減にならなければ、与えられない事もあると言う事。ね。勿論力を受けなければ、やれないと言う事もあると言う事。
ね、皆さんがよく言われますよね。神様に喜んで頂くような信心。親先生に喜んで頂くような信心。如何にもそれはもっともではあり、神様がすぐ聞いて下さるような感じがするんですけれどもね。その私は検討が大事です。本当に喜んで下さるかどうか。それにはね、おかげが頂けるという実力をね、得なければならんです。いわゆる信ずる力です。ね。昨日信心辛抱のおかげを頂くという、ね。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと言われるその、徳を受けるほどしの修行だから、昨日のあの厳しいそれこそあのうなら、(苦労道?)の御理解だったと思うんです。それを後でまた色々研修させて頂いてから、気付かせて頂いた事でしたけれども、いわゆる絶対信ですね。だからその絶対信を、自分の信心の上に頂かねばならない稽古の事です。それを私はあの私がいわゆる、修行中親教会の御大祭なんかの行事がある。御本部参拝こりゃもう毎月、月参りをさせて頂いておる、親先生のお供して。御大祭と言や必ず私は祭典費とお供えをさせて頂いた。もうどんなにどんなにもう無一物の時であっても、これだけは必ずお神様がおかげを下さったと言う事。ね。御本部参拝なら御本部参拝を、ね。毎月こらもう親先生がおいでられる時に、絶対これはおかげ頂くもんだと決めておりましたから、もう絶対おかげを頂いたと言う事。
ね。そこで私が感じさせて頂いたのはです。ね。例えば御大祭とか御本部参拝とかという、神様が喜んで下さる様な事に対してだけは、神様がこのようにも間違いなく、おかげを下さるのであるから、私の生活全体がです、神様に喜んで頂く様な状態にならせて頂いたら、どのような事でも、おかげが頂けるなと言う事を感じさせて貰う。だからいうならば、改まらずにはおられなかった、研かずにはおられなかった。それこそ一部の隙も無いごと。ほんなら今から考えて見ますと、目の粗い事でしたけれども、その当時としては、昨日申します、私がおかげ頂かん筈はないと言う確信が、もうもりもりと湧いてきたという事です。それはねいうならば御大祭は、神様が喜んで下さること。御本部参拝は神様が喜んで下さる、この事だけにはもう絶対おかげを頂いたと言う事です。ね。また頂いてまいりましたよ。だから、こんなにも間違いのない神様ですから、だから、なら、御本部参拝とか、その御大祭とかと言う様な、神様が喜んでまあその当時は、そう感じたんです。喜んで下さる事になら、神様がこの様なおかげを下さるのだから、私の生活全体が神様のお喜び頂ける様な私になりゃ、どう言う事でもおかげ頂かせて下さる。私は今日の実意を持って願うと言う事、ね。願うだけじゃないです、絶対おかげが頂けれるという信心は、そう言う様な意味で皆さんね。理解してもらいたいと思うのです。
昨日、松栄会の方達が大祭、霊祭の時には、必ず、あの、御神殿のお掃除を、みんなでさせて頂いております。まあ、みんな、白足袋、白衣に着替えて、そして、内殿から、そのお扉の中まで、綺麗にお掃除があるんです。
昨日も、松栄会の方達が、あの、集まって、その御用をさせてもらったが、一時間ばっかり、早う、麻生さんと石井信司郎さんが、やってきとりましたから、あの、研修に一緒に加わりました。
私は、昨日、ここ、誰かが整理してくれておってから、あの、おかげの泉を第 一号と、三十七節か、三十号か、その、おかげの泉がありましたから、ちょっと開いて見たら、ちょうど、昨日頂いた御理解を説いておるんです。ね。「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。」と、言われる、その御理解でしたから、読ませていただいた。もう、それこそ、一気に読ませて頂いた。そして、三冊とも読ませて頂いた。はあ、もう、おかげの泉というご本はもう、おかげ頂くなと思いました。
ね。もうそれこそ、どれだけ読んだか分からない。また、自分で話した事でもあるのですから、よう覚えてる。はあ、こんな話したなと。そしてそれを、改めて読ませて頂いて、なお、またおかげを頂くです。ですから、その事を、私が、信司郎さんに申しました。ね。「あんた方は、おかげの泉をどんな風にしてる。」「、ずっと、毎月頂いとります。」「その、いただいとるとはどうしよる。」まあ、それがまあ、ばらばらにこうしとるとこう。私は、ここで、例えばなら、ここで、信徒会長とか、ね。例えば、総代さん方にです、「あんた方は、おかげの泉はどうしとるか。」と、聞ききらんです、本当に。あの、粗末にしとるとでも聞いたら、この人達は、私が、信用をもう、しゅうごつなかごつなってくるです。だから私は、秋永先生なんかにまだ聞いた事がないです。もし、秋永先生が、あの、「あー、あれはもう、ばらばらにしてます。」と、もし言うたら、もう、私は、どうするじゃろうかと思うくらいにあるから、しきらんです。ただ、昨日はたまたま、そこに、信司君と麻生君が来とりましたから、二人に聞きました。そしたら、「毎月買いよる、毎月読みよるけれども、ばらばらにしとる。」「それじゃいよいよもって勿体なかばい」ち、と、こげんして、私どん、ちょうどこれが三冊目になるけれども、こんなに厚いのが、もう、三冊できとるち。だから信司さん、あのこれをね、御神前にお供えして、台の上かなんかに上げて、して、それこそ、あの、袱紗でもかけて、そして、いよいよ、あの、何かと、そらもう、信心の無い者でも、それを押し頂いていただいたら、今の悩みは解決する。今、どうしなければならない事は、必ずこの、おかげの泉の中から頂く事が出来るほどしに素晴らしい。これは、合楽のバイブルだ、聖書だ。というような、丁重ないただき方をしなければ駄目なんです。ばらばらにしとるとば、見たぐらいなこつじゃ出来ん。ね。いうならば、もう、これはもう、本当に、私の命のようなもんだ。だから、私を大事にするなら、このおかげの泉を大事にしなければいけないよ。ひとつ、今度、この、ばらばらになっとるとば纏めて、表紙を買うて、そして、そういうような頂き方をしなければいけないよと、言うて、そして、終わりましたから、(夕食時に?)入らせていただいて、そして、その事を思わせていただいたら、ね。大黒様の前に、皆さんが、お茶やら、水やら、お供えしとられますでしょう。それを下げて、そしてこの、おかげの泉を三宝に載せてお供えしたところを頂きましたよ。
はあ、親先生が、喜びなさるように、親先生が、喉が渇きなさるからお水をお供えする。親先生が、お茶が好きだから、お茶をお供えする。もう、お茶よりも水よりも、いうならば、この、おかげの泉、言うなら、教えを大事にするという事のほうが、どのくらい、親先生が喜ばれるか分からんという事です。そんなに大事なもんです。ね。だから、今日から、皆さんがです、お茶やら、水をお供えしんなはるならば、お茶やら水は、もう要りませんから、もう、私の命と思われるような、おかげの泉を、一遍、ずーっと求めて、ね。そしてあの、これはもう、親先生が、本当に皆さんが、親先生であるならばです、もう、それこそ、親先生が宝であるならば、家の宝として、この頂いていただきたいと思います。私は、昨日、三冊を、もうそれこそ、一気に読ませて頂いて、新たな感動、新たなおかげを受けるです。
ね。だから、そのくらいに、命と言うくらいに、その、命と言うくらいに大事にして下さったらです。これが、そういう、いうならば、働きを現すはずです。そしたら、綾部さんのご親戚の方で、神戸におられる方が、毎月、あの、おかげの泉でおかげを頂いたお礼を、お届けが必ずありますけれども、綾部さん、あちらにおいでられた時に、一番感動したことは、棚がある、棚の上に、その、お三宝に、この紫の袱紗をかけてから置いてあるげなもん。なんだろうかと思うたら、おかげの泉が、ちゃんと、こうして置いてあった。もう、これでおかげ頂くと言って、大変喜ぶ。毎月、そういってお礼があります。九州に見えたら、必ず、お礼参拝して見えます。
だから、問題はです。ほんなら、神様にも、丁重にしなければおかげが頂けないようにです。ね。教えそのものよりも大事にしなければ、おかげは頂かれんです。ね。神様をお粗末にしとって、本当の、良いおかげは頂けるはずはないです。ね。大黒様が、一番喜びなさることは、いうならば、お茶でもなからなければ、水でもない。おかげの、いうならば、教えを大事にするという、その形を現すならばです。おかげの泉を、一つ、もう一つ、大黒様の前に、小さい八足を作って、そして、おかげの泉をお供えして、そして、それを、押し頂く気持ちになってごらんなさい。必ず、おかげ頂くです。信心の無い者でも、それを開いてやって、その人の的確なおかげを頂かせて下さい。私も連れて参ってくださいという事に必ずなるです。
ね。第一号というのは、三百冊しか出来ませんでしたから、もう、聞いたら、もう、私のところに一冊その、余分なつがありましてね、そっであの、それを、栄四郎に、ちょうど一緒におりましたから聞きましたら、もうその「一号は、僕も持たない。」「ほんならこら、あんたに上げるがねこらもう、いうならばね、お父さんの、家わ、あんたが家別れする時に、の、これは、財産分けと同じことだよ」と言うて、私は、栄四郎に渡しました。ね。だから、そのくらいな丁重な頂き方をしてこそです。初めておかげが頂かれるのです。神様は、もう、それこそ、人間の難儀なことは、どげなこっでも良いから、お願いをせろよと言うておられるというような頂き方をせずに、ね。本当に、実は、実意を持って願えと仰る。その、実意というところを、いよいよ、分からせてもらう、ね。人間、信心が分かれば分かるほどです。信心が分かれば分かるほど、いうなら、自分自身が分かってまいりますから、すがらなければおられん、願わずにはおられん。その、願わせて頂いてこそ、すがってこそ、神様、いわゆる、本当の信心者だというのが言えるのです。
そこから、願ったならばです。いわば、おかげ頂かなければいけんです。それには、私が、絶対信です。いうならば、御本部参拝、御大祭の何か、これはもう、絶対と言うても、言うたら、どういうね、繁多?な中にあっても、どういうお金がないときであっても、このことだけなら、絶対おかげを頂くという、私の体験をです。皆さんも体験して下されなければいけない。そして、御本部参拝の事だけではない。御大祭の時だけではない。ね。神様が喜んで下さることなら、こういう間違いのないおかげが頂かれるという確信を持ったらです。言うなら、自分の信心生活のすべてがです、ね。神様に喜んで頂くような、あり方にさえなりさえすれば、どういう事でも、おかげが受けられるという確信が生まれて来るわけなんです。
ね。そらもう、御本部参拝のこつだけは、「私は、絶対参ることに決めとるけん、もう、必ず、おかげ頂くがの」と言う人は、合楽に幾らもおります。だから、御本部参拝が、そのように神様が喜んで下さることだからおかげ頂くのであるから、その思い込みを、なら、自分の家業の上にもです、ね。仕事の上にも、それと同じおかげのいただけることのために、なら、神様の喜んでいただく心の状態、ね。信心修行がなされなければならない、ね。それが、楽しいもの、有り難いものになってくる。ね、そこにです、私は、ね。実意を持って願うことになれば、必ず、おかげは頂けるという、絶対信の世界が開けてくるのです。ね。
私も、昨日の事を頂いてです。ね。皆さんが願いの芯になるもの、貴方の信心の芯になるものはです。神様がね、もう、本当に可愛らしいことを、願う氏子じゃあるというようなことを、芯から一つ、何かそこに、頂きなさらなければいけません。ね。私のようなものですけれども、ただ、私はもう、物心付くころから、親に孝行したい、親に喜んでもらいたいという。もうこれは、一念に、いうならば、燃え、これだけは燃え続けておったという事です。だから、そのための、自分の身体を犠牲にするといったようなことは、例えば、小僧時代の七年間であろうが、北京に参りましたことであろうがです。もう本当に、そのためでした。ね。だから、その事だけに、神様が、白羽の矢を立ててくださったんです。だから、これは絶対です。ね。お先祖を大事にするとか、親を大事にするとか、これはもう、あの、それが自分の信心の、芯になり、要になり、なら、その事だけではありますまい。もっと他にもありましょう。けれども、絶対、間違いがないというのは親孝行です。ね。ですから、そういう風なことは、信心をさせて、ただ、これが、親孝行だけで留まったらです、ね。そら、大した事になりません。
信心が、段々、分かってくるとです。その親よりも、もっと大事な親。いや、もっと大きな親、ね。そこに気づかせて頂くときにです。桂先生の御教えじゃないけれども、「親に不孝をして、神に孝行をして、のちに、親孝行のできる氏子がある」と仰る信心なんです。私は、そこんところを、こう、ふんまえながら、進んでいったように思うのです。ね。親ほど、そげな身にでもする人で?、もう、本当なおかげは頂けるはずは、絶対ありません。先祖を粗末にするような人は、絶対おかげにならんです。それには、自分自身が先ず、絶対、信心を頂いておるという事が、幸せだ、幸福だと思うたらです、ね。ご先祖もやっぱり、幸福になってもらわにゃいかんでしょうもん。ね。今日でも、例えば、御霊なら御霊のお祭りにはです。そういう一念、そういう思いを込めて、ね。今日の霊祭は、皆さん、私が、それを奉仕させて頂きますけれども、皆さんは、そういう思いでご参拝にならなければいけませんです。
ね。そして、その一念を、いうならば、ね。貫かせてもらう信心が出来ておりますとね、おかげを頂きます。ただ、親孝行だけでなら、もう、手段を選ばんといったような事ではいかんです。もう、四、五年前でしたかね。北九州の、兄弟三人、大変親孝行な息子が三人おった。それで、お母さんが、死なっしゃる前に、どうでんこうでん、立派な家ば、建てよと、三人で話し合った。ところが、今の自分たちじゃ、とても出来んからというので、それから、夜な夜な、ね。トラックを持ってから、九州中、あの、建設現場に行ってから、材料を取ってきたわけ。九州中歩くて、そして兄弟三人ですからね、トラックもって。もう、親に孝行したい一念が、そういう事になったんです。もう皆さんがね、笑いよるばってん、それとあんまり、五十歩百歩的な親孝行の人が、沢山あるですよ。それは、そん取って来とらんばってん、理屈は同じこつといったようなものが。だから、ただほんな、親孝行だけにとどまっとったっちゃ駄目です。ね。そして、立派なお家が建った時には、三人ながら、手は後ろに廻るという事になったんです。それこそ、もう本当に、親が子の、それこそのや。親孝行と思うた事どんが親不孝になる。いわゆる、親に孝行をして、神に不孝をして、ね。親に不孝をする氏子があるというのは、それなんです。
ね、だから、いわゆる、皆さんがです。はあ、親先生、なら、皆さんの親の親は私という事のなるでしょう。だから、こら、親先生が喜びなさるごと、お茶ばお供えして、水ばお供えしてと。はあ、どげな、いうなら、どういう素晴らしいものをお供えされてもです。それが、果たして、本当のおかげになるかどうか分からん。ね。いちっばん、お供えして喜ばれるものは、教えを頂いて皆さんがおかげを受けるという事なんです。ね。そういう意味で、大黒様の前に、今日からはです。ね、お茶やら、水じゃない。おかげの泉の、皆さんのところにあるだけのものを、綺麗にまとめて、そして、もういっちょ、お三宝ば、買わせてもろうて、ね。そして、袱紗の一つも掛けて、お供えをさせていただき、それを押し頂いて、いよいよ、日々、頂かしてもらうというようなあり方こそが、こんならもう、絶対、親先生がお喜びになることです。親先生がお喜びになる事ならもう、絶対、それこそ、天地の親神様に通わないはずはないです。ね。そういう、あり方を、これからは、一つ身に、いよいよ、付けていかなければならないですね。そういう事を、いわば、ふんまえてです。いうならば、願うという事が、実意をもって願うという事じゃないでしょうか。そういう、例えばね、親孝行の一念がです、ね。段々、信心が向上してです。ね。そして、神様を信ずる力が生まれてです。神様が喜んで下さることなら、このように間違いのないおかげの頂けれるという事をですね。都合が出来たら御本部参拝しよう。とうとう今度は、もう身体が悪かったけん、もうほっでん、参る。ね、私共は、ほんなこて、御本部参拝する時には、もう、本当にですよね。もう、お金はいっちょんなかったっちゃ、駅まで行きよりましたです。そしたら、おかげ頂きよったです。もうそら、例は幾らもあります。片道だけで参ったこともあります。ね。必ずおかげ頂いたです。だから、こげんも、御本部参拝が、間違いなくおかげ下さるものならばです、ね。神様が喜んで下さることを、だから、御本部参拝と同じような気持ちで、諸事万端の上にです。自分一身上の上にもです。神様に喜んでいただける、私になることを目指させて頂こうと願うならば、どういう事でも、おかげになるという確信が出来てです。私は、神様に願う。それが、私は、実意を持って願うという事だというふうに思うです。ね。言うごたるばってん、おかげになったり、ならなかったり、それでん、段々、おかげいただいとったっちゃ、附の良かったっじゃろぐらいな事になってしまう。ね。いよいよ、絶対信を頂かせてもらうために、今日、皆さんに聞いていただいた内容です、ね。今日は、いろんな角度から聞いていただいたから、ひとつ皆さんの心で纏めて、ね。そして、今日の霊祭なら霊祭にも臨ましていただきゃ、なるほど、こういう有難い心の状態にもなれる。こういう有難い心の状態。こういうまたおかげにも繋がるという体験をね。みんな、していって頂きたいと思います。どうぞ。